大日本帝国憲法について(参議院浜田聡議員のお手伝い)

 今日は11月11日です。ヨーロッパの多くの国は祝日です。第一次世界大戦が停戦となった日だから終戦の日としているようです。ドイツとアメリカが停戦協定を結んで4年に渡る戦争が終結した日です。一方、日本の今日は電池の日です。電池の+-から11月11日が電池の日になったのだそう。災害に備えて電池を備えておきましょう。準備、バッテリーってか。

 さて、昨日は参議院浜田聡議員のお手伝いに上がり、文化の日から1週間が経ってしまいましたが、遅ればせながら憲法について考えてみました。今回はなかんずく大日本帝国憲法、つまり明治憲法について考えてみます。

下記画像:宮内庁書陵部より

 大日本帝国憲法を語るうえで現行憲法である日本国憲法と比較する人が多く見られます。私はそのような比較は悪い冗談としか思えません。大日本帝国憲法は日本国憲法の54年も以前に制定されています。古いものを更新して新しい憲法に作り変えるにあたりその内容が良くなっているのは当然ことです。逆に日本国憲法と比較して大日本帝国憲法の事を酷く揶揄する論調も良く見受けられます。戦争をする為の憲法、天皇統治の憲法、女性差別の憲法、貴族・大地主の為の憲法、国家の為に自己犠牲を強いる憲法、宗教や教育を利用する憲法、中央集権の憲法などと言われ、その非難は書くに余りあるほどです。しかし、それらの悪評は然にあらずです。実は世界的にも非常に評価の高い憲法だったのです。確かに自由民権運動から派生して民間でも五日市憲法草案のような国民の権利を重視した案もありましたが、当時の時代背景では治安と統制上到底実現性はないものでした。

 では、実際に大日本帝国憲法の内容はどうだったのでしょう。学生レベルで少しだけおさらいします。まず、大日本帝国憲法が発布される時代背景を理解することが大切です。大日本帝国憲法が制定される時期には自由民権運動による憲法の制定や国会の開設の要求する運動が盛り上がっていました。併せて、対外不平等条約の存在、欧米列強国の海外侵略が進行する中で日本の国際的な地位向上と条約改正の素地を作って行く為に近代国家に必要な機能を整備していくという目的もありました。健保制定もその一環であり、必然的に欧米基準である権力の暴走を防ぐ立憲主義が採用されています。その上で明治政府は天皇を頂点とした組織であることから大日本帝国憲法においても天皇が主権者とすることとなったのです。第一条では「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」。第四条では「天皇は国の元首にして統治権を総攬する」。これが主権者を明らかにしています。いちいち条文を明記しませんが、天皇の権限は、役人の任命したり、条約も結べますし、戦争も出来ます。ありとあらゆる権限が天皇に集中しています。それが天皇大権です。これらはプロイセン(ドイツ)の憲法に倣って制定されました。一方で大日本帝国憲法をイギリス的な憲法という学者もいます。イギリス王室が現実的に政治的な関与による国家の統治を行っていないことから大日本帝国憲法との類似性が指摘されています。

現実として、天皇が条文通りに統治を実行できるかと言えばそうではありません。確かに条文では天皇中心ですが、実際の天皇は名目的な元首でした。江戸時代に形式的に朝廷の了解を得ながら徳川幕府が実質的に国家運営を行ってきた構図とそうは変わらないということです。

 この憲法が立憲主義に基づいていることから、第四条の後半に「この憲法の条規によりこれを行う」とあります。憲法に沿わなければならないという権力の暴走を防ぐ条文です。第三条には「天皇は神聖にして侵すべからず」とあります。侵すべからずとは天皇が責任を取ることはないということを意味します。責任を取らない判断だとか行動だとか関与なんていうものがあり得るのでしょうか。ありえないからこそ、この条文は、要は暗に天皇の政治的な関与は控え目であるべきだと解釈できるのでしょう。よって、天皇は名目的元首であると言えるのです。その場合、天皇の機能とは憲法に規定された各機関に正当性を与える政治的な権威ということだと思われます。

 天皇は統治大権も行政大権も立法大権も直接的な行使もしなければ積極的な関与もしていません。だからと言って「控え目な関与」が「何もしない」ということではありません。当時の国家運営の主導権争いは熾烈なものでした。旧来型の薩長の対立に加えて豪農の支持を受ける板垣退助率いる自由党と都市部のインテリ層に支持される黒田清隆率いる改進党の対立もありました。それらの対立が国家運営に不利益を生じさせる恐れのある場合は天皇による仲裁が行わることが期待され、実際にそのように機能していました。

天皇が名目的元首に留まるにも関わらず大日本帝国憲法にはそのことを明記せず天皇大権を謳っているのは、大政奉還によって明治政府が成立した歴史的背景があります。江戸幕府を倒して新政府を樹立するにあたり天皇を中心とした国家運営を唱えておきながら天皇を名目的元首であるかのように憲法的に位置づけることは出来なかったのでしょう。憲法と運用で乖離があるのは明治政府樹立のスローガンによる影響が大きかったのだと思います。

 大日本帝国憲法下の体制について振り返ります。国家予算は内閣が作成します。その予算を天皇が承認するのですが、天皇が却下することも異を唱えることもありません。よって、予算は行政において内閣案が執行されます。このことから天皇の編成大権や行政大権の行使はありません。当然、予算の中には陸軍と海軍の予算も含まれることから、予算編成に関して天皇の関与が無い以上、編成大権も行使することがないということです。それらの権限は実際には内閣にあるという理解で良いと思います。国会は予算審議を行い、内閣案を天皇に上奏しますが天皇が異を唱えることはありません。予算に限らず立法は専ら内閣と国会の審議に委ねられ、天皇による立法大権の行使はありません。憲法の条文上は「国家は天皇の立法行為を協賛する」とありますが事実上はその逆であったのです。予算は貴族院と衆議院を通過しないといけません。しかし、貴族院は藩閥議員が占めており、衆議院は政党政治家が占めています。よって、両院を通過させることは容易ではありません。憲法作成の主導権を握っていた長州閥の伊藤博文は両院の対峙時の調整役を天皇に期待する運用解釈を行っています。

 軍事に関してです。陸軍の参謀本部や海軍の軍令部を配下とする統帥件は、憲法上は天皇にあります。しかし、実際には統帥大権は陸軍参謀本部と海軍軍令部に委ねられています。統帥大権を行使すると有事の戦争責任を天皇が負うことになるからです。第11条の「天皇が陸海軍を統帥す」というのも名目的であったということです。

 国家体制は藩閥政治によって強い影響を受けています。薩長による政治主導の敵対は政党政治です。藩閥から内閣を正当に奪われた時のことを考えて内閣の権限を敢えて弱める規定を施していました。例えば、大臣の任命権は首相にはなく天皇に与えています。これは政党内閣の組成を阻止するための措置です。よって、議院内閣制ではありません。また、海軍と陸軍の大臣はそれぞれの専門職から選定されることを規定しています。海軍は薩摩、陸軍は長州の牙城であることから藩閥政治の維持を目論んだ規定でもあります。

 条約に関してです。条約は外交の範疇です。外交大権は、条文上は天皇にあります。ですが、ご多聞に漏れず実質的な外交大権は内閣が担っていました。外交大権は国会の承認を得る必要がありませんでした。その代わりに枢密院の批准が必要でした。枢密院は内閣より多い人数で構成されていました。つまり、外交大権を行使するには内閣の意思決定というよりも枢密院の判断を得る必要がありました。元々、枢密院は憲法草案を審議する機関でしたが、大日本帝国憲法の制定後は天皇の諮問に応える最高諮問機関として残りました。

 大日本帝国憲法では兵政分離が規定されました。兵とは軍務であり武官、つまり軍人を指します。政とは行政であり文官を指します。憲法発布前に既に軍人勅諭が発せられていました。軍人であった山形有朋が自由民権運動を扇動するということがあったことからこのような規定がされました。軍人が政治に口出しすることを禁止した規定です。軍人には被選挙権も選挙権も与えられませんでした。それは軍部が自由民権運動に染まることを避ける狙いがあったということです。この規定が統帥権の独立です。内閣が軍の統帥に関わることを否定した規定です。つまり、内閣は文官ですので軍務に関しては専門性がないはずだということです。内閣から分離した統帥権は、条文上は天皇が持っていますが、実際には参謀本部と海軍軍令部が持つこととなります。これによって参謀本部と軍令部は違約上奏権を持つことになり、内閣を通さず天皇への直接の上奏が可能となりました。併せて、陸軍大臣と海軍大臣は武官が就任するということが規定されました。首相は陸軍省と海軍省に軍部大臣の推薦の要請が必要となりました。

下記資料:元老、乾定食Twitterより

 天皇が大臣の任命権を保有していますが、実際にはこれも名目的でありました。天皇が内閣に関わる任命責任を負うことを避ける為です。内閣を司る総理大臣は元老によって任命されていました。元老とは明治維新の功績者である元勲達です。維新後に政府の中枢を担った薩長藩閥の中心人物のことです。長州出身の伊藤博文、山形有朋、井上馨、薩摩出身の黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道がメンバーでした。後に長州の桂太郎と薩摩の西園寺公望が加わります。内閣の責任は総理が負うのですが、総理の任命責任は元老が負うことで天皇に責任が及ばないようにしていました。上記のメンバーを見てお分かりだと思いますが、総理大臣は元老の持ち回りのような形で選ばれていました。そして、武官から推薦される陸軍大臣と海軍大臣以外の大臣も天皇は任命権を行使せずに総理大臣によって任命されていました。統帥権が政治から独立していると陸海軍が暴走して政府の意に沿わない戦争を起こしかねないという危惧があります。そのような危惧を調整する機能も元老が果たしていました。つまり、元老の中には陸軍の山形有朋と大山巌、海軍の西園寺公望がおり、元老内で利害調整や意見調整が行える状況にあったということです。同時に枢密院議長も元老から選ばれていたことから、枢密院議長が内閣内をコントロールする機能を備えていました。ちなみに元老は大日本帝国憲法に規定がありません。しかし、実質的に国家運営を主導していたことは間違いありません。それは条文と運用に乖離に他なりません。元老の中で意見が紛糾した際に仲裁するのが明治天皇の役割だったのです。そして、コントロールが効かないのは衆議院です。衆議院は政党によって構成されているからです。内閣と衆議院の対立時に最終的な調整役も天皇が負っていました。

 国民の権利についてですが、国民は臣民と位置付けられています。そして、国民には法律の範囲内で権利を保障されています。本来、臣民とは天皇の家来であることを意味します。同時に家来でありながらも制約付きで権利も保証されています。権利を与えられる反面、義務も発生します。大日本帝国憲法においては徴兵制が強化されて国民皆兵の制度が完成しています。

 最後に大日本帝国憲法の評価です。明治政府が発足以来、盛り上がりを見せていた自由民権運動による間接民主主義を整備要請に応える形で衆議院が作られています。これにより、民権派の念願は成就しています。また、憲法によって議院内閣制を否定してはおらず運用によっては政党政治が可能な余地を残しています。民権派も藩閥と共通認識として欧米列強入りの為には、文明国となる必要性を共有しており、大日本帝国憲法の制定を歓迎する土壌がありました。そして、国民の権利を規定した大日本帝国憲法は欧米列強から高い評価を受けました。世界の憲法議論の潮流として、イギリスの憲法をフランスが参考に制定し、フランスの憲法を参考にベルギーの憲法が出来、ベルギーの憲法を参考にドイツ・プロセイン憲法が出来、ドイツ憲法を参考に大日本帝国憲法が作られました。よって、当時の列強の憲法の中では最新の憲法が大日本帝国憲法であり、言論や信教の自由や衆議院の機能などは世界各国から非常に高い評価を受けました。それは紛れもなく不平等条約の改正の契機になったと言えます。日本が文明国であることを世界が認めることとなったからです。

 ちなみに伊藤博文らは大日本帝国憲法の制定時に憲法義解という、今でいう逐条解説を書いています。その内容は上記に書き連ねてきた内容に他ならず、憲法の条文と運用の乖離の実態を説明しているのです。

以上、最後までご拝読を賜りありがとうございました。

参考:国会図書館、憲法条文

   https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html

憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生

皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク 皇祖 皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆 皇祖 皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ 皇祖 皇宗及我カ 皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ 皇祖 皇宗及 皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ 神霊此レヲ鑒ミタマヘ 朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス 惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム 国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ 朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス 帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ 将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ

www.ndl.go.jp

   ウィキペディア、大日本帝国憲法

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

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