旭川市女子中学生いじめ凍死事件について(参議院浜田聡議員のお手伝い)
昨日の北海道は肌寒かったです。ほっかいろ・・・が欲しかった。
さて、オリンピックの演出メンバーであった小山田圭吾氏がかつてのいじめ行為の告白により、その職を辞職したことが記憶に新しいです。たとえ過去のことであってもいじめというのは辞職に値するほどの蛮行であるということです。今回は旭川で起きたいじめを苦にした14歳の女子中学生の凍死事件について考えてみます。
この事件が文春オンラインで報じられてから既に5か月が経過しています。非常にセンセーショナルな出来事であり、凄惨を極めた内容であったことから世間の反響は非常に大きく、今でもオールドメディアのみならず、有識者や評論家、ユーチューバーの間で事件の真相究明や糾弾、加害者の特定などについて頻繁に情報が発信されています。
私ももちろん、この事件についてアウトライン程度は知っておりました。ただ、未熟な私はこの手の事件に対しては感情的になりがちで話題にすることは避けておりました。ただ、せっかくの機会ですので私の思うところを包み隠さず記したいと思います。論理的でない内容になるかもしれませんが、予めご容赦願います。
画像:文春オンライン、イジメをうけた後の爽彩さんの絵
この事件を考えるにあたり、事件が周知されるきっかけとなった文春オンラインの記事を読み返してみました。私も長らく週刊誌や雑誌や情報サイトで記事を書く仕事に携わって来ましたが、今回の文春オンラインの記事は被害者側の情報提供に端を発したにも関わらず、加害者たちの主張や教師や教頭や校長の主張も丁寧に取材されており、客観性を保った記事になっていて感心しました。
ここには改めて事件の経緯や内容を明記しませんので、ご存じない方は下記のサイトをご覧ください。
資料:文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/44765
文春オンラインでは#1~#26まで丁寧に事件に関して報じています。そして、被害者の母親である廣瀬さんの心情を本人の言葉で綴っています。
「今日はさあやの15歳の誕生日でした。飾りを付けたり、ケーキを準備したりして 好きな食べ物を用意したりしました。お花も頂いてとても嬉しかったんです。でもいざローソクに火をつけて歌を歌うと さあやが居ない現実が突き付けられた様な気がして みんなで涙が止まりませんでした。どうして居ないのか こんな悲しい誕生日は初めてでした」
廣瀬さんを悩ましているのは「我が子を亡くしたら私だったら生きていけない」「私だったら子供が亡くなったら死んじゃう」などという言葉です。悪意はないのでしょうが、廣瀬さんには「あなたは死なないんだ」というふうに聞こえてしまうのです。
「私はイジメられる側に原因はないと思っています。イジメた人が悪いって、もう一度思い直してもらえたらうれしいです。何をされてもイジメをしていいことにはならないし、イジメの免罪符にはならないのです。爽彩はもう帰ってはきません。でも、私はもう一度爽彩に会いたいです」
「もう一度爽彩に会いたいです」偽らざる廣瀬さんの言葉に胸が張り裂けそうな思いを抱きました。感情的になりすぎだと思われるでしょうが、私はこの事件は殺人事件であったと思います。自殺ではなく他殺です。廣瀬さんの言うとおり、いじめられた側に責任はありません。能動的ないじめの被害者なんて存在しないのです。いじめはいつでも受け身なはずです。加害者はあくまで加害者であり、加害者がいるということは加害の対象となる被害者が単純に存在するのです。さらにこの事件についていえば多くの加害者によって一人の被害者を生んだのではなく、加害者一人ひとりがいじめによって被害者を殺したのです。みんなで殺したのではありません。一人ひとりが人を殺した犯人なのだと私は思っています。それは直接的に加害行為に及んだ実行犯だけではありません。いじめ被害を認めようとしなかった担任教師も殺人犯だと思いますし、被害者の救済を怠った上で加害者を擁護した教頭も関節的には殺人犯でしょう。そして、自身の保身の為にいじめ自体をなかったこととした元校長も殺人犯なはずです。多くの方に直接的かつ間接的に爽彩さんは殺されたのだと私は勝手に思っています。爽彩さんが殺害された事件が8件起こったのだと思っているということです。
これだけ多くの加害者に攻撃された爽彩さんの安息の場はこの世には見い出すことが出来ないほど心が壊れてしまっていたのでしょう。14歳の小さく未熟な心は不安と恐怖に押しつぶされ粉々になってしまっていたに違いないと思います。
海援隊の歌にこんな歌詞があったのを思い出しました。
「私の体を突き抜けて 明日の景色が見えますか あなただけではないのです 方舟に残っているのは 部屋の中にローソクともし 怯えている僕ですが ほんの少しずるさがあれば 愛の唄も歌えるのです ガラスの外に広がる世界に 粉々になって溶けていけたら いいのに いいのに」(そんぐふぉゆう)
亡くなる前の1年半、部屋にひきこもるようになった爽彩さんの目に映っていた景色はどのようであったろうか。この世での短い人生を終えて旅立っていった爽彩さんは彼女が理想とする地にたどり着くことが出来ただろうか。爽彩さんは慰安の日々を過ごせているだろうか。少なくとももういじめられることはないということだけは確かです。
吉野弘氏の詩に「日々を慰安が吹き荒れて」というのがあります。
「日々を慰安が吹き荒れる。慰安がさみしい心の人に吹く。さみしい心の人が枯れる。慰安が笑い、ささやき、うたうとき、さみしい心の人が枯れる。枯れる。なやみが枯れる。ねがいが枯れる。言葉が枯れる。」
自分の中に抱えている寂しさや悩み、それからもっと踏み込んだ精神性、プライド、それを紛らわせるものが慰安だといいます。心の中の淋しさや苦悩、そんな精神が、人生にとって本当に大切なものかもしれないのに、爽彩さんは泉下の人となる道を選びました。それが彼女の願いであったのですから居た堪れません。生前、彼女の部屋から「ごめんなさい」「殺してください」という独り言が聞かれたそうです。
さて、教職員を含めた加害者たちのことです。
下記:文春オンラインより(爽彩さんが死ぬ前に友人に送ったLINEの内容)
内容を簡単にまとめると
・会う度にものを奢らされる(奢る雰囲気になる)最高1回3000円合計10000円超えてる。
・外で自慰行為をさせられる。
・おな電をさせられ、秘部を見させるしかない雰囲気にさせられて見せるしか無かった。
・性的な写真を要求される。
・精神的に辛いことを言われる(今までのことバラすぞなど)etc……
ありまして、、
いじめてきてた先輩に死にたいって言ったら「死にたくもないのに死ぬって言うんじゃねえよ」って言われて自殺未遂しました》
A子、B男、C男、D子、E子が直接的な加害者です。文春オンラインで各人へのインタビューが掲載されています。A子は他人事のような発言に終始し微塵も反省はしていないようです。B男、C男、D子、E子について反省の姿勢を示してはいるものの責任を転嫁しようとしたり、証拠の隠滅を図ったりするなど精神性の未熟さを露呈しています。
担任教師は廣瀬さん(母親)の再三にわたる爽彩さんに対するいじめの相談にまともに取り合わず、悪戯に日々を経過させ、いじめが極限までエスカレートするという結果を招いています。この教師は「戸別の案件にはお答えできません」としか答えず、インタビュー中に薄ら笑いを浮かべるなど鬼畜の精神性を備えた人物なのだと思います。個別の案件に応えないという教師は一般論しか話さないと返答しているにすぎません。つまり、黙秘です。黙秘するということは、この教師は凄惨ないじめを放置したことも、母親の懇願を無視したことも、結果、生徒を死に至らしめたことも認めているのだと見なして良いと思います。
教頭の対応も酷かった。廣瀬さんに対して「加害生徒にも将来がある」とした上で、わいせつ画像の拡散等は学校内で起きたことではないとして責任の放棄を告げています。被害者の申し出に対して加害者を擁護する立場をとることは加害者への加担に他ならないと思います。担任教師の上司である教頭が加害者側に立つことによって被害者に孤立感と絶望感が募ったのは容易に想像がつきます。
校長の主張も人間的な醜さを露呈しています。いじめは無かったといいながらトラブルは存在したと言います。爽彩さんの死はいじめを苦にしたのではなく、以前から爽彩さんが死にたいと思っていただけだと他人事のようにあしらっています。いじめた生徒が爽彩さんに自慰行為やわいせつ写真を強要したことについても、子供は失敗する存在、そうやって成長していくのだ、とまるで評論家のような突き放した回答をしています。
極端すぎることは承知で言います。先日、北九州市で指定暴力団の組長の死刑判決が言い渡されました。この組長は実際には殺人等に及ぶ行為には至っていません。組長を頂とする下位の構成員が組長の意に呼応して行った犯罪とされ、実行犯ではないのですが組長に死刑判決が下されました。学校において生徒の管理監督の役割は担当教師にあるでしょう。担当教師を管理監督する役割は教頭にあるでしょう。そして、学校全体の指針を示し、判断や決定を下し、全体を統括するのは校長の役目だと思います。複数の生徒たちのいじめによって爽彩さんが死に至った現場の最高責任者は校長にあります。よって、私が考える爽彩さんの死に対する最終的な責任の所在は校長にあるのではないかと思っています。
今回、いじめた当事者の生徒達、担任教師、教頭、校長の全員が責任を放棄し自身の保身に終始していると言えるでしょう。教育現場に従事する者たちの姿として実に醜く嘆かわしいことだと思います。
何も関わらない私が当事者を批判したり、勝手な意見を宣うことこそ如何わしいとお叱りを受けるでしょう。しかし、私は、爽彩さんの命は救えた命であったように思えて仕方がないのです。救えた命を失ったのであればそれは他殺に外なりません。爽彩さんの葬儀には加害者も担任教師も教頭も校長も、つまり、学校関係者は誰も参列しなかったとのことです。そのことが正に彼らの罪悪感を現わしていると思います。
不幸なことが重なったこの事件を運が悪かったというような掴みどころのない結論にしてはいないと思います。責任の所在をはっきりさせ、その責を何らかの形で各々が負わないといけないと私は思っています。決しておざなりにしてはいけない事件なのです。
同時に母親の廣瀬さんにはもっと早くこの学校を見切って欲しかった。母の想いが教師に伝わらない間も、子は継続するいじめによって追い詰められて行くのです。子供とは時として残酷であり、加減を知らない未熟な判断で、行為はあっという間にエスカレートしていくのです。虐められているのではないかと疑問に思った場合は通学を一旦ストップすることが先決なのかもしれません。いじめだけはなく、生徒間で何らかのトラブルを抱えた場合は解決に至るまでは一旦通学を控える判断も必要だと思います。とにかく、いじめられる場面を回避しましょう。逃げ隠れすることは恥ずかしいことではありません。解決を図る手段でもあるのです。学習をする場は他にもいくらだってあるのですから。
さて、なぜ生徒たちはこのような凄惨ないじめを行ってしまったのでしょうか。しかも、集団で行ういじめは拷問やリンチと同じです。35年前、私が中学生だった頃にもいじめは存在していました。しかし、少なくとも私の周りではここまでの凄惨ないじめは聞いたことがありません。生徒同士の諍いが発展して、相手方に対して無視を決め込んだり、罵声を浴びせたりする姿を見たことがあります。それ以上の発展がなかなか見られなかったのは教師や親の存在が大きかったからです。やってはいかんことをすると叱られますし、親からも教師からも容赦なく鉄槌を下されます。授業でもクラブ活動でも自宅でも悪いことをすると相応の制裁を加えられました。出来の悪い私なんてビンタを張られるなんてことは日常茶飯事でした。それでも、私は制裁に慣れてしまうことはなく、絶えず大人の目を気にして、一定の規律のある檻の中で生きていたように思います。昨今は、体罰は犯罪の如く非難される風潮にありますが、体罰は未成熟な子供の行き過ぎた行為の歯止めになっていた一面もあったのではないでしょうか。子供が大人の顔色を見て成長することが良いことではないことはわかりますが、一方で、怖い存在があって育つ自制心もあるのは確かだと思います。大人による子供の間違った行為に対する制裁が必ずしも行き過ぎた体罰だとは言えないはずです。“時と場合によっては”という前提で柔軟に指導に当たればよいと思います。子供には“敵わない怖い存在”が必要な気がしています。
そして、教師はなぜいじめの存在を否定するのでしょうか。それは自身の保身のためだと思います。担当するクラスにいじめが存在すると自身の評価が悪くなると考えているではないでしょうか。それは教頭や校長も同じです。いじめの存在は自分たちのネガティブな評価に繋がると考えているのだと思います。教育従事者の間でそのような空気が蔓延しているのではないかと思います。爽彩さんのケースのような凄まじいいじめの場合は特に保身に走りがちなのでしょう。校長は重大な不祥事がなければほぼ例外なく勲章を授与されます。今回、爽彩さんが通っていた中学校の校長が陛下から勲章を授与されることはあってはならんと思うのです。陛下が勲章を与えることで今回の事件で校長に責任がないという保身のお墨付きに利用されないとも限りません。国民の幸福を祈る陛下に対してこの校長への勲章の授与は陛下の本意ではない行為を推し進めることになると思います。また、校長は定年後に教育委員会や図書館や公民館の何らかのポストに天下りできることが多いです。つまり、自身の定年後の生活もかかっているのです。
この際、特別に秀でた功績のある校長以外への勲章の授与なんて無くすべきです。それがなくても職務に邁進することは当然のことです。勲章の授与されたいという思いが不祥事の隠ぺいに繋がっているとしたら本末転倒です。定年後の天下りの斡旋も禁止すればよいと思います。そのようなポストがあるのなら一般に広く公募すればよいと思います。
いじめや生徒による不祥事が起きた場合は、その解決の如何、方法など救済と制裁に関して是非を問われ、評価をされるようにすればよいだけです。いじめや生徒による不祥事は教師や教頭や校長が発生源になることはないと思います。事態が起きたことに対する対処の善し悪しが問われるべきであり、その如何が評価の対象とされるべきなのです。
さて、現在、旭川市長は今回の爽彩さんの凍死事件に関して第三者委員会を組織して改めて再調査をすることを発表しています。それによって、現在の校長や当時の担任教師などはメディアの質問に対して一様に「第三者委員会の調査中の為にお答えできません」「第三者委員会の調査に全面的に協力する」という返答を繰り返すようになりました。当事者が最高で最強の逃げ口上を得たような状態になっています。
もし、旭川市長が本気で再調査に取り組むのであれば、第三者委員会のメンバーは被害者の母である廣瀬さん(母親)とも相談して決めるべきではないでしょうか。誰よりも真実を求め、隠蔽することなく真実を明らかにしたいと思っているのは廣瀬さんだと思います。遺族が納得する調査を行うには遺族の納得する人員で行うことが良いでしょう。そして、遺族が望む人員以外のメンバーはしがらみのない旭川市以外の人物であるべきだと思います。現状の第三者委員会は遺族は蚊帳の外で選ばれ、ほとんどが旭川市在住の人物です。今のままのメンバーでは調査内容に疑義が生じる可能性もありますし、遺族の納得が得られないかもしれません。
最後に、加害生徒達、担当教師、教頭、校長よ、お天道様はお見通しです。爽彩さんは-17℃という極寒の中で凍死しました。凍える雪の下から38日後に発見されました。爽彩さんは自殺ではなく凍死です。加害生徒達よ、担当教師よ、教頭よ、校長よ、自分の胸に聞くがよい。そして、十字架を背負って生きるが良い。爽彩さんの肉体は滅んでも魂は滅びない。加害者の将来は贖罪の将来でもあることを忘れないで欲しいのです。
今回は書き手の私が終始、感情的になってしまいました。ほんの数時間では私の考えが整理できませんでした。お許しください。
そして、いじめに苦しむ人で頼るところがない者がいたら、私で良かったら連絡(09027773398)をください。ゲーム感覚でいじめを楽しんでいる子供や大人よ、代わりに不肖、私が相手を買ってやろうじゃないか。
最後までご拝読を賜りありがとうございました。
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