ハイエクとケインズの経済学について(参議院浜田聡議員のお手伝い)
車の名前(ハイエース)ではないですよ、ハイエクさんです。ホームセンター(カインズ)ではないですよ、ケインズさんです。皇后さま(雅子妃)ではないですよ、まさひこです。
さて、昨日は参議員浜田聡議員のお手伝いに上がり、20世紀初期から中期にかけての経済論争や政策論争について纏めてみました。
上記:Wikipediaより
この写真を見て誰だか即座に応えられる人は何人いるしょう。ガンジーでもアインシュタインでもありませんし、ましてやアインシュタイン稲田でもありません。この方はオーストリアのノーベル経済学賞を受賞した経済学者のフリードリヒ・ハイエク氏です。
その昔、私がアメリカ横断ウルトラクイズに傾注していた頃にイギリスの経済学者のケインズの対抗として顔と名前を覚えたことが思い出されます。ケインズもハイエクも共に20世紀を代表する経済学者です。ハイエクを語るにケインズの存在は欠かせません。
上記:Wikipediaより
経済の自由主義とは、竹中平蔵氏に代表されるグローバリズムのイデオロギーとしての新自由主義を連想しますが、経済の自由主義という思想は実は古典的な思想です。18世紀の経済学者として有名なアダムスミスが提唱したのが自由主義と称され、絶対王政や重商主義に対して、市場での理性的な利益追求と自律的な運動法則による統治の実践の為に国家の介入を制限するという知です。
ちなみに、新自由主義は規制撤廃、福祉削減、緊縮財政、自己責任などを旗印に台頭した知です。アメリカのように一部の先進国の経済成長に資しましたが、企業権力の肥大化、貧富の格差の拡大、弱肉強食イデオロギーの浸透による市民の連帯意識の衰退といった負の効果も計り知れません。
話を戻しますが、20世紀前半から中盤にかけて古典的自由主義を改革する意味で登場したのがケインズによるマクロ経済論です。市場メカニズムにおける有効需要の不足を減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、有効需要は回復することができるとして財政支出政策を重視する考え方です。公共投資はその支出以上に国民所得を増加させるという乗数理論を提唱しました。
一方、ハイエクが提唱するのはミクロ経済です。政府の役割に頼らず、経済の市場原理に委ねる考え方です。国富論で有名な古典派経済学者のアダムスミスの思想を継承し、〝神の見えざる手″を可視化したのが英国の経済学者のマーシャルです。社会の教科書に載っていた需要と供給曲線を発案した人物です。その流れを汲んで登場したのがハイエクです。ハイエクは個人の自由に最大の価値があると考えました。1920年頃から1940年頃に経済計画論争においてハイエクは国家が経済活動や理想的な社会秩序を計画する計画主義は、全体主義に至る道であるとして否定しました。社会主義やファシズムなど、「強力な権力を持つ」「単一のイデオロギーで支配する」「国民の自由を制限する」という特徴を持つ全体主義国家が成立していたことに対して社会的に批判していました。ハイエクは全体主義に対抗して自由主義を守る為に、市場は単なる交換や利益追求を行う場ではなく、市場での活動を通じて自由の精神を鍛える場であるという主張をし、市場への国家の介入を批判しました。
ハイエクは国家が現状を踏まえて「これが必要になる」「これが作ればよい」と計画する設計主義を思い上がりだと否定しています。独裁国家であれば独裁者が、社会主義国家であれば党や国家が、福祉国家であれば政府や役人が、正しいことがわかる賢い人たちだから任せて置いたら良い社会になるということは幻想だと批判しました。何が必要なのか、何が売れるのかは事前にわかるものではなく、様々な試行の結果がアイデアやテクノロジーの発見に繋がるとしています。
ハイエクは、その土俵となる市場は財やサービスをお金で交換するだけでなく、自由な創作活動が行うことができ、評価が下される場であり、知識が縦横無尽に行き交う場と表現しました。
市場原理おいては儲ける人がさらに儲けるという仕組みであることは否定できません。金持ちが儲ければ下々の人まで恩恵を被ることができるということはありません。しかし、ハイエクは市場をより良い発見のプロセスとして必要なものと捉えています。「誰かが儲けることで誰かが損をする」というゼロサムゲームと考えるのではなく、「誰かが儲けることで社会全体の豊かさが引き上げられる」というプラスサムゲームと考えて社会全体でより良い方法を探す場だと捉えていました。
要するに、設計主義では現状をベースに計画的に生産することから新しい発想のものは何も生まれません。一方、ハイエクは自由な市場原理の試行錯誤によって社会が豊かになると主張しています。
ハイエクのミクロ経済学とケインズのマクロ経済学を正確に論じるには時間もスペースも到底足りませんので、上記のような最も外形的な説明に留めます。
一見、自由主義のハイエクが先進的で、政府の役割を重視するリベラリズムのケインズが古典的に思えますが、実は逆で、自由主義というのは経済的には古典的です。市場メカニズムに介入する中道右派としてのリベラリズムが実は先進的な思想だったのです。
さて、それらを念頭において、現在の日本についてはどのような状況にあるのかのアウトラインを探ってみます。
日本はミクロ経済かマクロ経済かというとその中間に位置するように思えます。生活保護、国民健康保険、国民年金等の社会保障は比較的充実しています。医療・福祉・年金が充実しているわりにGDP比の国民負担率は先進国の中では大きくありません。スウェーデンやフランスやドイツの負担は日本の1.5倍以上にもなります。政府の公的固定資本形成に関してはOECD主要国の中で一番低くなっています。
つまり、日本は各国と比較して少ない国民負担で手厚い社会保障を受けることが出来ていて、その代わりかどうかは不明ですが、公共財への投資も抑えられている印象があります。とはいえ、先進国の資本主義国の中では公共事業投資は比較的高い水準にあり、世界では中間的な水準です。やはり、公共投資の割合が大きいのはスカンジナビア半島の北欧社会主義国だと思います。
そういう意味では日本は社会主義の良いところと自由主義の競争社会の双方の利点を上手にバランスしている稀な国のような気がします。戦後の復興期の朝鮮戦争特需から高度経済成長期にかけて敗戦を経験した国民の不安を補う社会保障の充実してきたのでしょう。それと並行して国土改造計画と称する巨額の公共事業を推し進めることと所得倍増計画という国民の需要喚起を並行し、ケインズ経済学のいうマクロ経済政策の牽引によって国民生活は飛躍的に向上しました。戦後、GDPもGNPも弱かった日本においてはケインズのように公共投資を先行して経済を膨らませて税として回収する方向性が大いに有効だったのでしょう。
昨今においては日本の経済環境は成熟し、世界的な役割も大きくなったことから、米国、EUに次ぐグローバリズムの一環に寄与する必要にも迫られる立場になっていると思います。竹中平蔵氏やデイビット・アトキンソン氏の登場はグローバリズムのアメーバ式浸食を負ってのことと考えられます。
ハイエクのミクロ経済論を否定するつもりはありませんが、自由主義の概念の浸透は、言い換えれば緊縮財政論とも受け取れますので、デフレの一要素になりかねません。島国日本は国土改造、国土強靭化に対して巨額の財政出動をすることで資産形成し、国民生活の水準を向上させてきた経緯があります。そこで生み出された富が有効な需要となって資本主義市場を拡大してきました。国家の市場への介入は軽微でありますが、経済の水瓶としてのダム的な役割を政府が負ってきたことによる発展であるともいえると思います。グローバリズムに付随するGNPも大切ですが、GDPは現実を直視する上でより重要で、完全なる自由主義は日本国にとって相容れない方針であると考えます。
保護主義だと批判されそうですが、ミクロ経済もマクロ経済も各国の時代背景や地政などの立地環境、資源、宗教、民族など多様的な要素が関係します。どちらが正しいというものではないと思います。それこそ、イデオロギーは時代背景に左右されることで自然発生的に生まれるものだといえるのかもしれません。現体制を左派右派という色分けは容易ではありませんが、左派右派の定義が逆転しているとまでは言いませんが混在してしまって来た先にあるのが現在の日本の体制だと思えます。小泉政権以降、新自由主義による緊縮財政、富の格差、グローバリズムなど馴染み切れないセオリーが侵食していることに多少の疑念も抱いています。本来、世界的に自由主義こそコンサバティブであると認識されていますが日本では概念的にそうとはいえないと思います。政府を大中小で表現すると中なのではないでしょうか。大きな政府でもなく、小さな政府でもない、バランスを取ろうとする政府であり、それこそがやや保守的な存在であるように私は認識しています。
蛇足ですが、ひとつだけ体を為していないと思う経済思想があります。何を隠そう、マルクス経済学です。資本主義の下では利潤率が下がるので必然的に資本主義は崩壊するという思想です。100年以上経ちますが崩壊したのはマルクス経済学を実践する共産主義、社会主義です。ロシア革命後の社会主義計画経済体制がどうなったかは周知のとおりです。必然的に崩壊しつつあるのは資本主義ではなく共産主義、社会主義といったマルクスが提唱した社会民主主義であろうと思います。
以上、最後までご拝読を賜りありがとうございました。
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