認知症基本法案について
最近の疲ろう感は老化であろうか。。。
「共生社会の実現を推進するための認知症基本法案要綱」を読み込んでみました。この法案はまだ国会に正式な法案として提出されているものではありません。浜田聡議員も幹事長代理として参加されている共生社会の実現に向けた認知症施策推進議員連盟(自民党田村憲久会長代行)で検討されている法案です。法案の骨子は本年3月に公表されています。この議連の特徴は与野党の議員が参加する超党派議連であることです。もともと認知症基本法は自民党と公明党が共同で令和元年6月に国会に法案を提出していました。その後、本格的な議論に入る前に新型コロナウイルス感染症の感染が拡大し、政府を始め厚労省もその対応に追われることになりました。よって、認知症基本法案は継続審議となり成立には至っていません。ちなみに国会審議では政府提出法案が優先され議員立法は後回しになります。令和3年6月に自民党と公明党のみならず野党各党が参加する超党派の共生社会の実現に向けた認知症施策推進議員連盟が発足し、改めて法案成立に向けた協議が開催されました。こうした経緯もあり、最新の法案要綱は既に提出済みである自公による法案を基に加筆訂正したものが超党派の法案要綱となっています。
そもそも基本法とはどういうものなのか調べてみました。ウィキペディアによると「基本法とは、国の制度・政策に関する理念、基本方針が示されているとともに、その方針に沿った措置を講ずべきことを定めている法律。その基本方針を受けて、その目的・内容等に適合するように行政諸施策が定められ、個別法にて遂行される。また基本法は親法として優越的な地位をもち、他の法律や行政を指導・誘導する役割がある。」とされています。基本法は様々な分野で制定されており、失効したものを除いても52本あります。宇宙基本法やエネルギー政策基本法やスポーツ基本法など大枠の分野に対する理念や方針を示すものから、障害者基本法やがん対策基本法やギャンブル依存症基本法など個別の事象に対する方針を示したものまで様々です。親法である基本法が成立することによって関連法が様々成立し、基本法で示された理念や方針が具現化していくという効能があります。例えば障害者基本法の成立後には身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健福祉法、学校教育法、障害者総合支援法、障害者差別解消法、障害者虐待防止法などが制定されたり改正されたりしています。宇宙基本法の制定後には「人工衛星等の打上げ及び人工衛星の管理に関する法律」や「衛星リモートセンシング記録の適正な取扱いの確保に関する法律」が制定され、民間企業の衛星打ち上げの許認可に関してや衛星の観測データが国際テロに利用されないようにする規制が定められました。基本法の成立をトリガーにして具体的な施策が推進されるのです。理念や指針、基本的枠組みを示すものが多い基本法は議員立法によって成立することが多い傾向にあります。
本法案の対象とする認知症の疾患者は国内で推計630万人いるとされています。65歳以上の高齢者の17.5%が認知症を患っているという統計もあり、2025年には高齢者の20%が認知症になり700万人を突破するという予測もされています。日本の高齢者人口の割合は世界1位です。平均寿命も世界1位となっています。認知症の最大の原因は加齢です。当然のこととして人は加齢を避けて通ることはできません。よって、認知症は誰にでも起こりうる身近な存在だと言えます。
それでは法案の具体的な内容について4年前の自公案と今回の超党派案との差異を中心に考証します。(参考資料を参照)まず、法案名が違います。「認知症基本法案」が「共生社会の実現を推進するための」という長めの接頭語がついています。50本以上存在する基本法案の中でタイトルに目的を付した基本法案名はありません。よって、相当なこだわりを感じます。ですが、目的は総則の1で著わしているので私には蛇足な行為に思えます。
第一の総則の一では自公案の「認知症の予防等を推進しながら」が削除され「認知症の人の尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができるよう」が加筆されました。「予防」という言葉が削除されたのは、認知症に関連する団体や認知症疾患者やその家族の意向がありました。予防という言葉を使うと認知症患者は予防を怠った人であるかのように受け取れるからだと言います。しかし、それは杞憂だと思います。予防は完全な対策でも解決策でもありません。予防はあくまで希望的な取り組みの形態に過ぎません。基本法案から予防という言葉を消し去ることがポジティブな行為には思えません。
また、「社会の一員として尊重される社会の実現を図る為」が削除され「認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を発揮し、相互の人格と個性を尊重しつつ支えあいながら共生する活力ある社会の実現を推進することを目的とする」に上書きされています。この一の目的の項目が以後の各項目で「一の社会を実現するために」と現わされ繰り返し明記されています。つまり、自公案は認知症の人の尊厳を守ることに対する施策の推進に重点を置いていた法案でしたが超党派案では認知症を個性と認めて共生できる社会の実現の推進に重点が置かれるようになっています。
三の基本理念は大きく書き換えられました。超党派案は①において「認知症の人が基本的人権を享有する個人として」と明記しています。認知症関連団体による人権の表記の希望を汲んだ結果です。憲法で保障された基本的人権が認知症になることで失われることは当然ありえないことですから改めて明記する必要はないことですが当事者の方には人権が脅かされていると感じる経験をしたのかもしれません。それは本法案とは別の問題として人権侵害の解消を図る必要があるでしょう。②は新たに国民に対する認知症に関する知識や理解を深めることの推進について新たに加筆されています。③について自公案は「認知症の人の意思決定の支援」としてところを超党派案では「認知症の人が自己に直接関係する事項に関して意見を表明する機会の確保」と書き換えています。意思決定の支援によって自己の意見が打ち消されることがないようにするための一文だと解釈しました。④の切れ目のない福祉サービスの提供、⑤の家族への支援の必要性については両案に変わりありません。⑥について自公案は認知症に関する研究と研究成果の普及と活用と発展を明記していましたが超党派案はそれらを国民が享受できる環境の整備を書き加えています。
第二は認知症施策推進基本計画についてです。一の計画の策定については自公案も超党派案も政府の計画策定を義務付けています。二の都道府県認知症施策推進計画について自公案も超党派案もともに「策定するように努めなければならない」という努力義務に留めています。認知症関連団体などからは都道府県においても策定を義務付けるようにする要望はあったようですが受け入れられてはいません。ではなぜ政府には義務付けて地方自治体は努力義務に留める必要があるのでしょうか。それは地方分権化が進んだことによる影響によってだと思われます。1993年に国会で地方分権を推進する決議がなされて以来、地方分権推進委員会によって国の法令による自治体の義務付けや枠付けの見直し行われてきました。とりわけ、総務省では所管する関係法令を中心に義務付けや枠付けの廃止が目指されたのでした。地方自治体に義務付けを行うことはそうした地方分権の推進に逆流するような行為とも取れます。また、政府の計画は既に公表されている認知症施策推進大綱をそのまま基本計画とすることができますが地方自治体はそういうわけにはいきません。都道府県であれば都道府県地域福祉支援計画、医療計画、都道府県老人福祉計画、都道府県介護事業計画など、市区町村であれば市町村地域福祉計画、市町村老人福祉計画、市町村介護保険事業計画などとバランスを取りながら計画を策定しなければなりません。そこに地域ごとの事情やニーズを反映させていくことは多くの時間と労力を要する作業となります。義務を課すことで過度の負担を地方自治体にかけると計画の策定だけが目的となりかねません。自公案、超党派案で地方自治体への計画策定義務を回避したことは妥当であると考えます。
第三の基本的施策の二の2について自公案にあった「認知症の人の権利利益の保護を図るため成年後見人制度の利用の促進、消費生活の被害防止の為の啓発、認知症の人が権利を円滑に行使できるように関係職員に対する研修その他必要な施策」という項目を丸ごと削除されています。認知症の人に意思決定や意思表明に際して成年後見人制度は一つの有効な支援だと思いますし権利保護につながると思います。どのような懸念があって削除されたのかその経緯に明らかにしてほしいと思います。四は自公案では「認知症の予防等」でしたが超党派案では自公案のすべてがここでは削除されて「認知症の人の意思決定の支援及び権利利益の保護」に変わっています。自公案の四の予防については超党派案の八に移されています。自公案では三の2に明記されていた認知症の人の権利保護についてですが四に移動しています。それによって元々存在した予防に関しては四では全文が無くなりました。認知症の人や家族、関連団体は「予防」という言葉に対して過敏になりすぎていると思います。予防は重要な施策だと思います。予防は完全ではないことから認知症の人を予防を怠った人などと決めつけたり偏見をもったりすることはあまり考えられません。予防の推進や早期発見の為の機会の創出は必要不可欠な施策だと考えます。
四の超党派案では「認知症の人の意思決定の適切な支援、権利保護を図る為の指針の策定、わかりやすい情報提供、被害を防止するための啓発など必要な施策」と書かれています。そのような施策を考えることも重要かもしれませんが、自公案の成年後見人制度の活用の推進は直接的かつ具体的でより有効な施策だと思います。
五の保健医療サービスおよび福祉サービスの提供体制の整備等の3ですが、自公案では「医療従事者および介護従事者に対する認知症の人への対応を向上させるための研修の実施」だったものを超党派案では「医療または福祉に関する専門的知識及び技術を有する人材の確保、養成及び資質の向上に必要な施策を講ずる」に書き換えられています。なぜ研修という言葉を避けたのか不明です。医療従事者および介護従事者は医療または福祉に関する専門的知識及び技術を有する人材とイコールではないのでしょうか。言い換える必要性を感じません。さらに、資質の向上とありますが、資質という持って生まれたものを向上させることは可能なのでしょうか。可能だとしたらどういった側面を指しているのでしょうか。
六の相談体制の整備の3については自公案では「認知症の人の状態に応じた学習の機会の提供」とあるものを超党派案では「認知症の人または家族が孤立することのないよう互いに支えあうために交流する活動に対する支援」に変更されています。趣旨は全く変わっていますが超党派案は良い意味でアップデートされていると思います。似た境遇の者同士が交流することは情報交換ができたり、経験を共有できたり、相互の理解を深め助けにつながることも多いと思います。
七の研究等の推進等ですが1で自公案超党派案共に認知症に関する基礎研究、臨床研究を促進するために必要な施策を講じるとし、自公案の2は3に移し、超党派案では2に新たに「認知症の人が尊厳を保持しつつ暮らすための社会参加のあり方、認知症の人が他の人々と共生することができる社会環境の整備についての調査研究および検証、活用に必要な施策を講じること」を明記しています。3は情報の蓄積、管理、活用の為の基盤整備についてであり概ね自公案のままです。
八は認知症の予防等ですが、この項以前の自公案にあった予防に関する記述がすべて削除されていましたが、超党派案では八にそれらがまとめて記述されています。ただし、予防の対象者が「希望する者」となぜか限定されています。自公案では予防に関する項目が四にありましたが、超党派案では八に移されて対象者を「希望者」として、「科学的知見に基づく適切な予防」という形容詞が加えられています。
以上が認知症基本法要綱の自公案と超党派案を考証した内容となります。認知症施策は認知症施策推進本部を本部長は内閣総理大臣、副本部長は内閣官房長官、健康医療戦略担当大臣及び厚生労働大臣がなります。本部員は本部長、副本部長以外の国務大臣があたります。本部には非常勤の20人以内で構成される認知症施策推進会議が設置されます。委員には認知症の人及び家族、認知症に係る保険、医療又は福祉の業務に従事する者その他から内閣総理大臣が任命します。細かいことですが施行期日が自公案では公布の日から6か月以内となっていますが超党派案では一年以内になっています。不足として両案ともに施行後5年を目途として総合的な検討が加えられます。
さて、平成30年に認知症基本法法律案の自公案が国会に提出されて以来、複数の地方議会において国に対しての意見書が採択されています。その多くは同様の内容です。一に認知症コーディネーターの養成などの支援体制の構築、二に認知症サポーターの活動の支援やガイドブックの作成などの支援、三に認知症に関わるビックデータを活用して予防法などの適切な対応などに対する施策に取り組むこと、四に認知症治療薬の開発と早期実用化、最先端の技術を用いた早期診断法、リハビリや介護方法の研究を進めること、の4点が判を押したかのように多くの地方議会から国に求められています。そして、これらの内容は今回の超党派案にも凡そ網羅されて記載されています。そのことからも認知症条例などよりも国が認知症基本法を制定することが政治的で当を得た方法と言えると思います。
認知症には中核症状というものがあります。例えば、昼夜を問わず外に出ていってしまう徘徊によって目が離せない方、家族に疑いの目を向けたり、ひどい言葉を浴びせたりする方、介助の手を全力で拒んだり、奇声をあげて暴れたりする方、食べてはいけないものを食べてしまう異食などです。これらは、以前は問題行動とか異常行動などと言われることもありました。現在はBPSDと呼ばれています。行動=心理状況という意味を表しています。介護する側からすれば異常で問題のある行動ですが、認知症の人からすれば、整理することができない自分の思いや理由に「何とかしなくてはならない」「でもどうしていいかわからない」というさまざまな葛藤や焦り、喜怒哀楽のなかで、自分を保つために、あるいは自分を守るために、何とか対処しようとした結果がBPSDだということです。俳諧や妄想や暴言など家族にとっては大きな負担となります。ですが、認知症に対する正しい理解があれば、いくらか納得がいき、疲れやいらだちを和らげることができるかもしれません。認知症になった本人、その家族だけではなく、社会全体で認知症に対する理解を深めていくことが社会の寛容さを生み、互いにおおらかにいられることにもつながるのかもしれません。その切欠と大枠を提起するのが今回の「共生社会の実現を推進するための認知症基本法案」なのでしょう。国が先導して認知症に対する正しい知識と対応を周知し啓蒙することで日本がより日本らしく、大いなる和を貴ぶ国としての深化に繋がると思います。認知症の人は不安や恐怖に駆られることが多いと言いますが、一人でも多くの人がおおらかな気持ちで笑顔で接することができるようになること、それこそが共生社会の初めの第一歩なのでしょう。
かつて認知症は痴呆症と呼ばれていました。痴呆という言葉にはかつて阿呆という意味を現わすこともありました。2004年には痴呆症は認知症と呼び変えられて随分と印象もかわりました。2000年以前は認知症の症状で受診するのは精神科が主でありましたが2000年以降には多くの病院に物忘れ外来が設置されるようになりました。1972年に発表された有吉佐和子著の「恍惚の人」では認知症の人を「大変な迷惑をかけるが、本人は、至って“しあわせ”なのである。脳をやられると自分がなくなり、意志力も思考も喪失してしまう」と書かれています。認知症の症状である徘徊にも物事を調べて回るもの、他人につきまとう、何かを探し回る、目的なしに歩く、夜間に歩く、とんでもない目的に向かって歩く等、様々な種類があり、それぞれに意味があると言われています 。しかし当時は病気についてほとんど知られていなかったため、徘徊についてもその理由については作品内でまったく触れられていません。ベストセラーとなった「恍惚の人」は多くの国民に老いの恐怖、認知症への恐怖を抱かせると同時に認知症介護に生じる二次的な現象、すなわち家族関係、夫婦関係の変化や問題として「家族を崩壊させるもの」という印象を根付かせました。また、認知症に焦点をあてることで死よりも恐ろしい老いというものの存在を示しました。「恍惚の人」が広く社会に認知されるまでは認知症の人を抱える家族は認知症を恥と捉え沈黙を守り社会から孤立し苦悩する存在でした。「恍惚の人」が出版されて以来、介護の壮絶な苦悩を家庭外で語ることが可能となったことは大きな出来事です。
2004年に荻原浩著「明日の記憶」が出版されてベストセラーになりました。この著書によって認知症は高齢者だけの病ではないという認識がもたらされました。主人公が若年性アルツハイマー病と診断され病気と闘っていく過程と患者の心情を描いた作品です。これまでの認知症をテーマとした作品はその家族や関係者からの目線で書かれていましたが「明日の記憶」は本人の心情の変化の過程が描かれ、恐怖や不安、告知された心境、絶望感といった心の葛藤を患者自身が語っています。患者自身が病気の苦悩や不安について語ったことで、それまで何も分からない、感じないと考えられていた認知症患者が実は苦悩していることが初めて社会に示されました。これまで主となっていた認知症の介護問題から病気の進行過程や残された時間の生き方など焦点が移りました。認知症の症状が進む恐怖は患者自身も感じることが出来るということ、介護する側だけではなく、患者自身も苦しみ、悩み、そして闘っていることを「明日の記憶」は示したことになります。
昨今の社会では認知症に関する認識や理解が進み地域での活動や交流を活発化させて認知症に関わる人が偏見なく安心して暮らせる地域づくりに取り組もうとする意識変化が見られるようになりました。福祉や制度だけに救いを求めるのではなく幅広い世代の人々が主体的かつ積極的に認知症問題に取り組むようになったように感じます。今後の残された課題として認知症という病気のイメージの変換が必要だと思います。痴呆症という病気の否定的なイメージ、恥ずかしい病というイメージを払拭しなければなりません。未だ認知症は恐ろしい病気のひとつだと考える人も多いです。認知症は決して恥ずかしい病気ではない、ということを広く周知されなければなりません。認知症は誰にでもなりうる身近な病気だということを社会全体で理解する必要があります。その為には認知症について語られる機会や場が重要です。行政を先頭に各メディアも連携して認知症の負のイメージを変えていくことが認知症基本法に最も求められていることだと思います。
最後までご拝読を賜りありがとうございました。
参考資料
0コメント